【公式】松本忠之「中国人は反日なのか」(コモンズ出版)著者のブログ

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【「呪縛」を乗り越えてつかんだアジア№1】コラム:クアットロディチ第十回(その1)

イングランド・オランダ・日本・中国の各国の指導者ライセンスを所持するサッカースクール!

小松英之の連載がブログで紹介されました!

【コラム】クアットロディチ 第十回(その1) 

『「呪縛」を乗り越えてつかんだアジア№1』

 1点ビハインドの後半ロスタイム、DF吉田麻也のヘディンシュートが絶体絶命のザックJAPANを救う。ロスタイムの同点劇という、何か因縁めいたものを感じさせたこの緒戦から優勝への予感はあったのかもしれない。

 先日、見事2大会ぶり4度目のアジア制覇を成し遂げた、日本代表。 筆者はこの大会、「呪縛」を乗り越えての栄光だったと考えている。冒頭に触れた緒戦のヨルダン戦、まさかの1点を追う展開となった、後半ロスタイムに「勝ち点0」が「勝ち点1」に変わったわけだが、この地でこれがどういった意味を持つか。</ DIV>

 メディアは盛んに”18年前の”「ドーハの悲劇」を報道するが、今大会に出場したほぼ全選手がW杯出場後にプロ入りを果たした選手であり、ドーハのことを言われてもピンと来ないのが正直なところであろう。 しかし、あの時ラモスが、カズが、柱谷が、井原が流した涙が日本を強くしたのは間違いない。 忘れろとは言わないが、「ロスタイムでの得点」は新たな喜ぶべき記憶によって塗り替えられることとなった。

 2戦目のシリア戦でも試練が待っていた。例の誤審問題だ。副審がフラッグを上げていても、最終的なジャッジを下すのはあくまで主審なので、オフサイドかどうかはともかくとして、あのレッドカードにはやはり疑問が残る。

 しかし、選手たちがコメントしていたように、「これがアジアの戦い」と割り切り、ナーバスになることなく勝ち点3をもぎ取ったこと、これが最も評価できる。今までのチームにはなかったような力強さを感じ取ることができた。

 サウジ戦に圧勝して迎えた準々決勝で対戦したのは開催国カタールだった。 完全アウェー、過去の対戦でも1勝しか挙げれていないという不利な条件の中、やはりジンクスなのか、常に先手を許す苦しい展開。しかし、ザックが語るように、「(メンバーが入れ替わる代表チームにおいて)過去の対戦成績など無意味だ。」 記録というのは破られるためにあり、この試合で、日本は10人になりながらそれを証明して見せた。

 永遠のライバル韓国との準決勝も、この試合前まで5戦未勝利という嫌な流れだったろう。しかも、「あの」W杯パラグアイ戦以来のPK戦突入。 ここでGK川島永嗣が鬼神のごとく立ちはだかった。

(続く)

<筆者紹介>

中島雅淑 1983年 9月5日生まれ

19931996 地元の小学校のサッカー少年団でサッカーを始める。 当時は宇宙飛行士を夢見ていて「体を鍛えるため」という名目だったが、次第に魅力に取り付かれていく。

19961998 中学校のサッカー部に所属。 

1999- 高校受験とともに辞め、進学校だった事もあり、一時期サッカーから離れるも、プレーしなくなった事により、見る「目」が肥えてくる。 また、高校2年時にはアジアカップ2000が開催され、再びサッカー熱に火がつくようになる。 

2002- 大学のサークルでプレー。日韓W杯は全試合観戦。また「瑞穂陸上競技場」「豊田スタジアム」で名古屋グランパスの売り子アルバイトをしながら試合を観戦

2003- 大学中退して大阪へ 専門学校のフットサル大会のため体を動かす程度。テレビ局の関係でチャンピオンズ・リーグを定期的に観戦。

2006- 仕事の関係で東京へ プレーはしなくなるが、WOWOWに加入していたため、毎週リーガエスパニョーラを観戦。

2007- 地元岐阜に帰還。 FC岐阜が財政危機に陥っているという話を聞き、「地元のクラブを助けなければならない」という思いから、定期的にスタジアムに観戦に行く事になる。

2010- テレビ局の関係でプレミアリーグを見るようになる。

<エピソード>

嫌がる元カノを無理矢理瑞穂陸上競技場グランパス戦へ、 せっかくガストでいい感じで女の子と食事していたのに02/03のクラシコがテレビ放映されていたため、気がそっちへ行ってしまった実績あり。

波乱万丈な人生を歩む、だが東海屈指にフットボールを愛している27歳の男。

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