【世界一のSBへ-長友は「日本のパク・チソンになれるか-】コラム:クアットロディチ第十二回(その一)
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【コラム】クアットロディチ 第十二回
『世界一のSBへ-長友は「日本のパク・チソンになれるか-』(その一)
移籍終了期限ぎりぎりで世界指折りのメガ・クラブ、「ネッラズーロ」インテルミラノへの移籍を果たした日本代表DF長友佑都。日本人選手がこれほどのビッグクラブでプレーするのはかつてアーセナルに所属していた元日本代表MF稲本潤一(現川崎F)くらいで(00-01シーズンのスクデット獲得に貢献した元日本代表MF中田英寿氏のローマの例は”プリンチペ”トッティの存在の特殊性とクラブ自体のタイトル獲得数の少なさから「例外的事例」とする)、日本のメディアでもこのビッグニュースは驚きと共に期待を込めて大々的に報じられた。
初戦(2月3日セリエA第22節、アウェー)にベンチ入りしただけでも信頼の証と言えたのだが、続くローマ戦(2月7日セリエA第23節)で途中出場ながらデビューを果たす。
試合後の記者会見でもサンシーロでのプレーぶり同様、実に堂々としたものだった。 ビッグクラブでのプレーにもビビッたところがなく、「チャレンジしてやる」という意気込みが伝わってくる彼が、このままどこまで駆け上がっていくのか注目だ。
さて、今回の長友のインテル加入だが、冬のカルチョ・メルカートということで、よく言われる、「ジャパン・マネー」を見込んでの獲得ではないだろう。ただでさえイタリアは昨年の南アフリカW杯の失敗で、登録できる外国人選手の枠を制限している上に、DFアンドレア・ラノッキアをジェノアから補強しなければならないほど、前線に比べて不安定な状態で、また、高齢化も進んでいるのがインテルのウィークポイントであり、特に世界的に左サイドバックを務められる選手は枯渇しており、長友はそのうえ左右のサイドバックにウイングバックにまで対応できる。
インテルにもサネッティというポリバレントな選手はいるが、あと何年プレーできるか、分からない。セリエAとチャンピオンズ・リーグというハイレベルな戦いを経験しながら成長していくことで、その「領域」にまで達するのではないか。
そこまで考えるのはまだ気が早すぎるかもしれないが、CLが再開すれば日程はどんどん過密になっていき、ケガ人、出場停止の選手も増えてくるだろう。「カップ・タイド」の制約のない長友はCLでもプレーできる。これもメリットと考えたのだろう。
(続く)
<筆者紹介>
中島雅淑 1983年 9月5日生まれ
19931996 地元の小学校のサッカー少年団でサッカーを始める。 当時は宇宙飛行士を夢見ていて「体を鍛えるため」という名目だったが、次第に魅力に取り付かれていく。
19961998 中学校のサッカー部に所属。
1999- 高校受験とともに辞め、進学校だった事もあり、一時期サッカーから離れるも、プレーしなくなった事により、見る「目」が肥えてくる。 また、高校2年時にはアジアカップ2000が開催され、再びサッカー熱に火がつくようになる。
2002- 大学のサークルでプレー。日韓W杯は全試合観戦。また「瑞穂陸上競技場」「豊田スタジアム」で名古屋グランパスの売り子アルバイトをしながら試合を観戦
2003- 大学中退して大阪へ 専門学校のフットサル大会のため体を動かす程度。テレビ局の関係でチャンピオンズ・リーグを定期的に観戦。
2005 3月 インターンシップで第87回センバツ高校野球のスポニチの取材補助を経験。
2006- 仕事の関係で東京へ プレーはしなくなるが、WOWOWに加入していたため、毎週リーガエスパニョーラを観戦。
2007- 地元岐阜に帰還。 FC岐阜が財政危機に陥っているという話を聞き、「地元のクラブを助けなければならない」という思いから、定期的にスタジアムに観戦に行く事になる。
また、市民参加型インターネット新聞新聞サイト「オーマイニュース」に登録して、スポーツ記事を主に発信。年末には活躍が認められ韓国での記者交流会に参加。
2010- テレビ局の関係でプレミアリーグを見るようになる。
<エピソード>
嫌がる元カノを無理矢理瑞穂陸上競技場のグランパス戦へ、 せっかくガストでいい感じで女の子と食事していたのに02/03のクラシコがテレビ放映されていたため、気がそっちへ行ってしまった実績あり。
波乱万丈な人生を歩む、だが東海屈指にフットボールを愛している27歳の男。
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