【公式】松本忠之「中国人は反日なのか」(コモンズ出版)著者のブログ

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コラム:紛争とサッカーと

欧州サッカー連盟(UEFA)は12日、グルジアの首都トビリシで行われる予定だったUEFAカップ予選のWIT(グルジアオーストリア・ウィーン(オーストリア)の試合を中止にすると発表した。原因はもちろん、ロシアとグルジアの戦闘のためである。

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イングランドとアルゼンチン

ヨーロッパのサッカーの歴史は古い。

そしてその歴史は決して栄光にだけ彩られてきたわけではない。国家間の対立感情が、本来政治には無縁であるはずのスポーツにまで憑依することはよくある話で、世界的に人気の高いスポーツであるサッカーにももちろんそういった例は多く見られる。

代表的なものといえば、フォークランド紛争であろう。

フォークランド紛争とは、1980年代初頭にイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名: マルビーナス諸島)の領有を巡り、イギリス・アルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争である。紛争とは言うものの、ほぼ戦争状態に近かった。この紛争を境に、両国の国交は断絶した。

そして迎えた1986年Wカップ・メキシコ大会。

この大会の準々決勝でアルゼンチン代表とイングランド代表が激突。結果は2対1アルゼンチンが勝利し、アルゼンチン国民を熱狂させた。サッカー史に残るマラドーナの「神の手」ゴール、そして伝説の5人抜きゴールは共にこの試合で生まれた。

この準々決勝は、まさに「フォークランド紛争」の代理戦争のような感情を両国国民にもたらした。サッカーが盛んな両国ならそれも無理はない。

その後、両国は1989年に開戦以来初めて、敵対関係の終結を宣言し、翌1990年、外交関係を正式に回復した。

しかし、この歴史が引き金となったのであろうか、その後も「イングランドvsアルゼンチン」はいわゆる「いわく付き」の対戦カードとして世界から注目されるようになった。

98年大会では決勝トーナメント1回戦でこのカードが実現。この試合で、当時まだ若手で将来を嘱望されていたベッカムが、アルゼンチン選手の執拗なマークに痺れを切らし、ファールで倒されたあとに報復行為をして一発退場した、などということもあった。

ちなみに、両国は2002年日韓ワールド杯ではグループリーグで対戦。このときは、4年前にレッドカードで一発退場となったベッカムのPKによるゴールでイングランドが10とアルゼンチンに勝利した。

日本人にもおなじみのあの人も

サッカーと紛争というキーワードで忘れてはならないのは、日本でもおなじみのあの人。そう、前日本代表監督のオシム氏だ。

日本でも発刊されたオシム氏の自伝を読むと、まさにその激動の人生が伝わってくる。

1990年にユーゴスラビア代表を率いてワールド杯イタリア大会に臨んだオシムは、BEST8という記録を作る。大会終了後、同国代表監督とパルチザン・ベオグラードというクラブチームの監督を兼任する。

しかし、1990年以降ユーゴスラビアの国家情勢は次第に雲行きが怪しくなる。元々多民族・多宗教の連邦国であったユーゴにおいて、それぞれの民族や宗派が次々とユーゴ連邦からの離脱を宣言する事態となる。「ユーゴスラビア」という国は事実上、分裂したにも等しい国家となった。

1992年3月にはボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴ軍がサラエボに侵攻。オシム本人は直前に仕事のため次男を伴いベオグラードに赴いたため戦火を免れる事が出来たが、夫人と長女はサラエボを脱出することが出来なくなり、家族が紛争によって断絶してしまう事態に陥った。

サラエボでは日々銃声が響き渡り、市民は恐怖から外出もできない。街には死体がごろごろと転がり、通信も断絶。オシムも家族の安否を知りたくて外地から何度もサラエボに連絡を取ったが、連絡が付いたことはほとんどなかったという。

同年5月。サラエボ侵攻とユーゴ分裂に抗議する意味を込め、オシムパルチザンとユーゴ代表の監督を共に辞任。その後ギリシャパナシナイコスオーストリアブンデスリーガSKシュトゥルム・グラーツで指揮を取り、夫人・長女との再会を果たしたのは1994年のことであった。

紛争とサッカーと

幸い、というべきか、今回のロシアとグルジアの戦闘によるサッカー界における被害は出ていないようだ。もちろん、サッカー界などと言ってはいられない。戦争はあってはならないことだし、国家間やイデオロギーの対立で人命が失われるのも黙って見過ごしていてはいけない。

ここでは「スポーツ」という話題からそれてしまうのでこれ以上、戦争や紛争については書かないことにするが…

いずれにしろ、世界の歴史においてサッカーが様々な戦争や紛争に巻き込まれてしまうのは、サッカーが世界的な人気スポーツで、人々から愛され、また大きな影響力を持っているからに他ならない。

中田英選手も、引退後に世界を旅して回ったときに、サッカーが世界に与えている影響力の大きさに改めて気付かされたと語っていた。

今後もサッカーは世界中を熱狂させ、世界中に影響力を与え、ますます発展していくことであろう。しかしその発展過程の中で、もうこれ以上サッカーやサッカー関係者が戦争や紛争に巻き込まれないことを祈るばかりである。

筆者紹介:

小松英之(こまつひでゆき)。静岡生まれ。

小さい頃から地元の高校である清水商業や清水東、東海第一(当時)、静岡学園などの試合を見て育つ。大学卒業後に中国に渡り、日本代表やJリーグの観戦ができなくなるが、あふれるサッカー熱は抑えきれず中国サッカーの観戦及び取材を行うようになる。中国のプロサッカーリーグであるCリーグの観戦多数。

また、中国女子サッカー代表の監督を務め、現在Cリーグの強豪・山東魯能でコーチを務める張海濤コーチとは、家にも行ったことがあるほどの仲。同コーチは今年、ドイツのケルンFCにてコーチ留学を終えて帰国した。ドイツでのコーチ留学の状況を聞けるなど、貴重な交流を重ねている。