【公式】松本忠之「中国人は反日なのか」(コモンズ出版)著者のブログ

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【PK戦廃止は是か非か】コラム:クアットロディチ第六回

イングランド・オランダ・日本・中国の各国の指導者ライセンスを所持するサッカースクール!

小松英之の連載がブログで紹介されました!

【コラム】クアットロディチ 第六回 

PK戦廃止は是か非か』

FIFA会長ゼップ・ブラッターが、2014年ブラジルW杯から、「PK戦決着の廃止」を検討しているという、注目の発言をしている。 その理由も、「特定の選手がスケープゴートのように扱われてしまう、PK戦のようなやり方は、アンフェアでふさわしくない」との事だ。 一理はあると思うが、賛成者はどれくらいいるだろう。

 確かに、テレビカメラでは最後のキッカーが決めた(失敗した)瞬間、「勝者」と「敗者」のコントラストが明確に分けられ、「誰が」敗因を作ったのかは一目瞭然になる。

 列強国では、その選手が痛烈なバッシングにさらされ、私的財産が破壊されることすらあるほどだ。

 確かにこれを見ると、「スケープゴートを作ってしまう」とも言えなくもないだろう。しかし、筆者は次に示す2つのゲームから、「PK戦存続」の立場を取りたい。

 一つ目は記憶に新しい南アフリカW杯決勝トーナメント1回戦、日本×パラグアイだ。

 スコアレスのまま突入したPK戦、互いに初のベスト8をかけて戦った一戦はパラグアイに軍配が上がった。しかし、試合後に駒野(磐田)が流した涙に感動した人も多いのではないのだろうか。駒野をねぎらうチームメイトや、岡田前監督の姿には、この競技にしか見られない「美しさ」があった。日本チームのPK戦での姿は、敗れても尚、「チームとしての一体感」を感じさせてくれた。こういったシーンが見られるのはPK戦ならではだ。

 次に挙げるのが、94年アメリカW杯決勝、ブラジル×イタリア「W杯」「PK戦」というキーワードでこのゲームを思い浮かべる人も多いのではないのだろうか。灼熱のアメリカの大地で、共に史上最多の(当時)4度目の優勝を狙った両雄の激突は、大会史上初の決勝戦でのPK決着となった。

 イタリアは1人目主将のバレージが外すと、迎えた5人目、前年度世界最優秀選手のロベルト・バッジオ(現伊協会スタッフ)が大きく上に外してしまい、ブラジルが優勝を手にする。ショッキングな結末に、この映像は何度となく世界中で流されたものだ。

 当然のように、彼は国内で大バッシングを受けた。手にしかけていたW杯のトロフィーがすり抜けていったのだ。イタリア国民の失望、怒りは言葉で表すことはできない。

 さて、一時はプレーに精彩を欠いていたバッジオだが、97-98シーズンに移籍したボローニャで復活をとげる。シーズン22ゴールを叩き出し、フランスW杯のメンバー入りを果たす。

 迎えたフランス大会、グループステージ初戦のチリ戦で「その時」は訪れた。

 まさかの1点ビハインド、後半も残りわずかというところでバッジオが自らのプレーでチリDFのハンドを誘いPKを獲得。イタリアにとって起死回生の、バッジオにとっては雪辱の時がやってきた。スタジアムが静まり返る。

 決めた。

 NHKのアナウンサーの「4年越しのPKを決めました、ロベルト・バッジオ。」の実況は未だに忘れられない。そう、まさに雪辱のため、この時のため、彼は4年間戦い続けてきた。

 バッシングに耐え、戦術で折り合わない指揮官に冷遇されチームを追われ、それでも彼は戦った。

 彼を奮い立たせたのは間違いなくあのアメリカの大地でのPK戦での敗北だろう。

 「このままでは終われない」その気持ちが1人のファンタジスタを突き動かす原動力となった。

 この大会、イタリアは準々決勝で地元フランスにまたしてもPK戦の末敗れ涙をのんでしまう。 1番目のキッカーはバッジオだった。まるで忌まわしい過去を振り払うかのようにPKスポットに立つその姿は、彼の4年間で培ったもの、たくましさが伝わってくる。

 しかし、ディ・ビアッジョのキックがバーにはじかれ、金属音と共にイタリアの戦いは終わりを告げた。

 試合後、うなだれるディ・ビアッジョをねぎらうバッジオの姿があった。

 後にインタビューで彼はこう語っている。「私はあのような経験をした。だからこそ彼らには伝えたいのです。『悔しさをムダにするな』と。」

 フットボールはメンタルがモノを言うスポーツだ。PK戦はその象徴のようなものだろう。テレビカメラに映し出された”戦犯”がスケープゴートとなっているのは間違いないだろう。

 そのしかし彼らには悔しさをバネにして、さらなる成長をとげるメンタリティーがある。PK線の敗北により、1つの物語が終わっても、フットボールの世界は続いていく。

 もう一度言おう。PK戦決着は「悪」ではない。

<筆者紹介>

中島雅淑 1983年 9月5日生まれ

19931996 地元の小学校のサッカー少年団でサッカーを始める。 当時は宇宙飛行士を夢見ていて「体を鍛えるため」という名目だったが、次第に魅力に取り付かれていく。

19961998 中学校のサッカー部に所属。 

1999- 高校受験とともに辞め、進学校だった事もあり、一時期サッカーから離れるも、プレーしなくなった事により、見る「目」が肥えてくる。 また、高校2年時にはアジアカップ2000が開催され、再びサッカー熱に火がつくようになる。 

2002- 大学のサークルでプレー。日韓W杯は全試合観戦。また「瑞穂陸上競技場」「豊田スタジアム」で名古屋グランパスの売り子アルバイトをしながら試合を観戦

2003- 大学中退して大阪へ 専門学校のフットサル大会のため体を動かす程度。テレビ局の関係でチャンピオンズ・リーグを定期的に観戦。

2006- 仕事の関係で東京へ プレーはしなくなるが、WOWOWに加入していたため、毎週リーガエスパニョーラを観戦。

2007- 地元岐阜に帰還。 FC岐阜が財政危機に陥っているという話を聞き、「地元のクラブを助けなければならない」という思いから、定期的にスタジアムに観戦に行く事になる。

2010- テレビ局の関係でプレミアリーグを見るようになる。

<エピソード>

嫌がる元カノを無理矢理瑞穂陸上競技場グランパス戦へ、 せっかくガストでいい感じで女の子と食事していたのに02/03のクラシコがテレビ放映されていたため、気がそっちへ行ってしまった実績あり。

波乱万丈な人生を歩む、だが東海屈指にフットボールを愛している27歳の男。

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