【公式】松本忠之「中国人は反日なのか」(コモンズ出版)著者のブログ

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【Jリーグ再開へ、2つの提言】コラム:クアットロディチ第二十一回(2of2)

イングランド・オランダ・日本・中国の各国の指導者ライセンスを所持するサッカースクール!

小松英之の連載がブログで紹介されました!

 2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロの際、アメリカ国民は「普通に生活すること」により、テロリストに立ち向かったという。 自然災害と比較できるものではないかもしれないが、我々は歩みを進めていかなければならない。

 

 9月からはブラジルW杯のアジア予選が開幕する。 3月のテストマッチが中止となり、2011年に入っってからまともな強化はほぼ行えていないという状況下で、この南米選手権は願ってもない機会だ。

 昨年10月8日に埼玉スタジアムでアルゼンチンを10と破ったザック・ジャパン初戦は、だが実はバルセロナ所属FWリオネル・メッシのコンディションが100パーセントでなかったことはあまり知られていないようだ。

 リーグ戦での負傷から復帰してまだ1、2試合しかこなしていない状況で合流し、それでも”片鱗”は見せた。 日本代表が勝利を収めたから、メッシが得点を奪えなかったからではない。 世界最高峰、リーガ・エスパニョーラのDF陣を毎試合あざ笑うかのようにいとも簡単に抜き去ってゴールを決めていく。 彼はまだ23歳だ。 そのメッシ率いるアルゼンチンと今回はアウェーで本気の勝負が出来る訳だ。この機会を逃したら次はないかもしれない。 

 

 もしこれで彼らを封じることができたら、その時はまた一歩、「世界トップ10」に近づいたと言えるだろう。

 この千載一遇のチャンスに是非日本代表にもフルメンバーで挑んで欲しいものだが、思い出されるのは1997年のフランスW杯アジア最終予選だ。

 

 セントラル開催からホーム&アウェイに急遽方式が変更となったために、Jリーグ開催期間中にもかかわらず、最終予選が開催される事もあった。しかも当時は1999年から導入されるJ1J2入れ替え戦導入のためにJ1参入権利を勝ち点の高いクラブから得ていくという方式がとられていた。1997年はその1年目だったのだが、日本代表選手の供出で有利不利が出ないためにと1選手が1試合招集されるごとに勝ち点0.1ポイントが加算されるというシステムが取られていた。

 あの時は2002年自国開催W杯を控え、何としてもその前に「W杯出場経験国」にならなければならないという、瀬戸際の戦いだった。 今、日本サッカー界はある意味ではピンチに立たされている。 鹿島MF小笠原満男が危惧しているように、今回の大震災で、サッカーをやめてしまう子供たちが出てくるかもしれない。

 

 サッカー界そのものの未来が危ぶまれている、そういった時に日本代表が力強く戦う姿こそが強烈なメッセージとなるのではないだろうか。

 現在、海外組選手のみで南米選手権に臨むのか、Jリーグからも派遣するのか、そうすると肝心のリーグ戦はどうなるのか、など様々な意見が出ているが、代表、Jリーグ各クラブ双方にメリットがなければならない。代表選手が所属しているクラブに対し、選手権開催期間中の補償金を臨時に支払うという対策を打ち出すというのも一つの方法だろう。

 このメッセージが届くかどうかは分からないが、何もかも辞めてしまう事が正しいとは言えない。サッカー界は新しいシーズンが動き出していく。

 

 今は未来へと歩を進めることが、多くの人の望みではなかろうか。そのために最善の策を講じることを願う。

(完)

<筆者紹介>

中島雅淑 1983年 9月5日生まれ

19931996 地元の小学校のサッカー少年団でサッカーを始める。 当時は宇宙飛行士を夢見ていて「体を鍛えるため」という名目だったが、次第に魅力に取り付かれていく。

19961998 中学校のサッカー部に所属。 

1999- 高校受験とともに辞め、進学校だった事もあり、一時期サッカーから離れるも、プレーしなくなった事により、見る「目」が肥えてくる。 また、高校2年時にはアジアカップ2000が開催され、再びサッカー熱に火がつくようになる。 

2002- 大学のサークルでプレー。日韓W杯は全試合観戦。また「瑞穂陸上競技場」「豊田スタジアム」で名古屋グランパスの売り子アルバイトをしながら試合を観戦

2003- 大学中退して大阪へ 専門学校のフットサル大会のため体を動かす程度。テレビ局の関係でチャンピオンズ・リーグを定期的に観戦。

2005 3月 インターンシップで第87回センバツ高校野球スポニチの取材補助を経験。

2006- 仕事の関係で東京へ プレーはしなくなるが、WOWOWに加入していたため、毎週リーガエスパニョーラを観戦。

2007- 地元岐阜に帰還。 FC岐阜が財政危機に陥っているという話を聞き、「地元のクラブを助けなければならない」という思いから、定期的にスタジアムに観戦に行く事になる。

また、市民参加型インターネット新聞新聞サイト「オーマイニュース」に登録して、スポーツ記事を主に発信。年末には活躍が認められ韓国での記者交流会に参加。

2010- テレビ局の関係でプレミアリーグを見るようになる。

<エピソード>

嫌がる元カノを無理矢理瑞穂陸上競技場グランパス戦へ、 せっかくガストでいい感じで女の子と食事していたのに02/03のクラシコがテレビ放映されていたため、気がそっちへ行ってしまった実績あり。

波乱万丈な人生を歩む、だが東海屈指にフットボールを愛している27歳の男。

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