【公式】松本忠之「中国人は反日なのか」(コモンズ出版)著者のブログ

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【縦横無尽】実践家と観念家

【実践家と観念家】
つい先日、マレーシアのマハティール首相が日本のテレビ局のインタビューに答えていた。曰く
「マレーシアには憲法第9条はないが、憲法第9条を実践している」
外交問題は交渉とギブ&テイクで解決すべきだ」(武力を手段にしてはならない)
なるほど、さすがに歴史に残る名宰相だと感心した。つまりは観念家ではなく、実践家なのである。だから「なくても実践している」や「ギブ&テイク」という表現ができる。観念家にはできない表現だ(もしくはできても説得力がない)。高齢なマハティール氏が首相に返り咲いたのを後継者がいないと取るか、群を抜いた実践家に再び任せたと取るかは個人の問題である。
観念家が幅を利かせて久しい。思えば私は大学生の頃から観念家にイニシアチブを取らせてはならないと主張し続けてきた気がする。あれから20年。観念家のイニシアチブは減るどころか進んだように思う。しかも20年も継続すればそれはすっかり定着し、覆すことも容易ではない。もはや主張しなくなったのは諦観か、それとも歳のせいで元気がなくなっただけか。
だが、年の功というのもある。観念家の性質については、これはずばり、はっきり言える。観念家はパターン化したやり方に権威を添えて人々に示し続ける。人々の善意にあぐらをかき、自分にも権威を付けるようになる。パターンや体制の維持のためにはどこまでも必死になる。隠蔽、強制、上から目線、傲慢、驕慢…。それに異議を唱える実践家が現れると「はみ出しもの」のレッテルを貼り周囲から孤立化させる。それでも実践家が怯まなければ今度は「危険人物」のレッテルを貼る。社会的、世間的に違う類の人間だと周囲に認識させる、つまり「村八分」である。
こうして実践家は集団、パターンから隔離され、イニシアチブを取り続けるのは観念家となる。この上はもう徹底的に観念化したらいいのではないかと思うようになった。諦め?それならそれでいい。戦時中の日本軍部は徹底的に観念を突き詰めていった結果、あぁなった。歴史は繰り返す。だったらもう一度そうなればいいのでは。一度、徹底的に破壊されないとこの国の人々は気付かないのなら、それもやむなしである。
その間、実践家は確実に海外に生きる場を求めるだろう。

 

 

中国人は「反日」なのか: 中国在住日本人が見た市井の人びと

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