【中村祐人】独占インタビュー(2015春) 第5章ラウール
4月の特別企画として、毎週の土曜日と日曜日に新連載を配信いたします。
タイトルは「【中村祐人】独占インタビュー(2015春)」。
香港プレミアリーグの名門・サウスチャイナで活躍する日本人選手の独占インタビューをお届けいたします。
聞き手は中国サッカーに造詣の深い当ブログ執筆者の松本忠之氏。
本日は第五章をお届けいたします。ぜひとも最後までお楽しみください!
—さて。続いてはニューイヤーズカップで対戦したニューヨーク・コスモスのラウール選手について。中村選手の憧れの選手でもあります。実際に対戦してみて、いかがでしたか?
中村「すごかったですよ。全然衰えを感じないくらい、すごかったです」
※ニューイヤーズカップ・・・2015年2月19日に行われたサウスチャイナvsニューヨーク・コスモスのゲーム
—同じピッチに立って、そう感じた、と?
中村「はい。さっき、感覚の部分は才能だって話をしましたけど、まさに彼がそうですよね。サッカーを知っているなと」
—サッカーを知っている、ですか?
中村「はい。僕が考えるサッカーをよく知っている選手というのは、例えばDFラインとMFラインのギャップを活かせる選手。そのギャップでボールを受ける、そのギャップにボールを出せる、またはそのギャップを作り出せる。そういう能力をもった選手ですね。あくまで僕の考えですが」
—ラウール選手には、それがあると?
中村「はい。ギャップで受けられるし、ギャップに出せるし、ギャップを周りのために作れる。受ける、出せる、作れる、の三拍子が完璧に揃っていますね」
—その部分は、先ほどあったように、もうこれは才能である、と。トレーニングのみではあのレベルまではいかない、と。
中村「無理ですね。ラウールはもちろんテクニックもありますよ。でも、世界でベストではないですよね?それでも、あそこまで登りつめた。それはもう感覚的な才能以外にないですよね」
—ただ、ニューヨーク・コスモスには、そんなラウール選手の作り出すギャップやスペースを活用できる選手が周りにいましたか?
中村「はい。コスモスには(マルコス)セナがいますからね。セナがまたいいタイミングでラウールが作り出したスペースにパスを出すんです」
—そういえば、先ほど、ニューイヤーズカップでは中村選手がセナ選手のマークについたというお話がありましたね。セナ選手については、ピッチで対戦してみてどうでしたか?
中村「やっぱりすごい選手でしたよ。テクニックもありますしね。でもセナに関しては年齢的な衰えを感じましたね」
—そうでしたか。
中村「はい。ラウールに比べると、そこまですごいとは感じなかったです」
—そう考えると、ラウール選手はやはりすごいですね。
中村「そうですね。まだまだトップクラスでプレーできると思いますね」
—小さい頃から憧れていた選手とピッチで対戦する。どんな気持ちですか?
中村「そうですね…まぁもちろん嬉しいですよね。ユニフォームも交換させてもらいましたし」
—夢が現実になった、という感じですか?
中村「ラウールに関しては、対戦することになるなんて、夢にも思っていませんでしたよ」
—いつくらいから憧れていたんですか?
「小学生のころからです。トヨタ杯で来日した試合で、ラウールがゴール前で複数のDFをかわしてシュートを決めたシーン。あれが本当にすごかった」
※ここで中村選手は夫人に向かって、そのゴールのすごさとそれをテレビで見た感動を語り出す。
ちなみに、中村選手が語るラウールのゴールとは1998年のトヨタ杯。レアルマドリーvsバスコ・ダ・ガマの試合で当時若干21歳だったラウールがセードルフからの浮き球のパスを巧みなトラップで受けた後、ゴール前でDF2人をかわして決めたゴール。
—その試合で中村少年にとってラウールが憧れの選手になったんですね。
中村「はい。しかも、若い頃のラウールってかっこよかったじゃないですか?今はまぁ年相応ですけど(笑)」
—イケメンでしたよね。ゴールを決めた後の指輪にキスをするパフォーマンスは有名です。
※ここで再び中村選手が夫人に向かってラウールのゴールパフォーマンスを説明する
中村「ラウールは膝でスライディングしてから、指輪にキスをするんですよ。あれがまたかっこよくて」
—中村選手はその頃、つまりジュニアの頃から、もうFWとしてプレーしていたんですか?
中村「いえ。あの頃はSBでした」
—あ、最初はSBだったんですね。
中村「だから、インタビューを載せてもらった当時の新聞を見ると、将来はサネッティみたいな選手になりたいって書いてありましたね」
—そうですか!私はインテルファンなので、サネッティといえば、もう伝説の選手です。
中村「ちょうど僕が小学6年生の時にフランスW杯があって、FKからサネッティがシュートを決めたんですよね。あれを見て『サネッティすげぇ!』ってなりました」
※中村選手が語るサネッティのゴールとは、1998年フランスW杯のラウンド16アルゼンチンvsイングランドの一戦。2-1とイングランドがリードして迎えた前半終了間際、アルゼンチンがFKからのトリックプレーでサネッティが決めたゴールのこと。
—いつからFWでプレーするようになったんですか?
中村「中学一年の時にいきなりトップ下で起用されて、それがうまくいったので、そこからはサイドではなく中央でプレーするようになりましたね。で、確か中学三年の時にFWになって。それから以降はFWとトップ下をいったりきたりという感じですね」
—西武台高校時代は全国大会にも出ていますね。
中村「はい。インターハイと選手権で。どちらも二回戦で負けてしまいましたが」
※中村選手は西武台高校時代、2004年度インターハイ、第83回全国高校サッカー選手権大会に出場。インターハイでは兵庫県の滝川第二に、選手権大会では静岡県の藤枝東に敗れた。
—あの時代の滝川第二というと、確か今の日本代表の岡崎慎司選手が…
中村「はい。同学年ですよ」
—やはり!
中村「あの時の滝川第二は強かったですよ。岡崎のほかにも木嶋悠とか森島康仁とかがいましたね」
—なるほど。話をラウールに戻しますと、小学生の時にラウールのプレーを目の当たりにしてから、ビデオを見ては練習したそうですね。
中村「それはもう。それもボールを持っていない時の動きとかまで。自分はスピードがなかったので、そこが生命線でした」
—ボールを持っていない時の動きまで、ですか。
中村「はい。ボールの扱いがうまい選手っていっぱいいるじゃないですか?僕がもしそこで勝負したら、そこそこのレベルまではいけるだろうけど、トップレベルまではいけないだろうな、と。だから、ボールを持っていない時の動きとか、そういうところを伸ばすようにしていましたね」
—ボールを持っていない時の動き、いわゆる「オフ・ザ・ボール」の動きですが、そういうプレーが評価されだしたのって、私の感覚ではわりと最近のことで、以前はそういう部分の評価は低くて、いかにボールの扱いがうまいかっていうところばかりが評価対象になっていたように思うのですが。
中村「1998年のフランスW杯で日本代表がグループリーグで3連敗を喫したときに、『仕掛けられるプレーヤーがいない』ということになり、それからはトレセン(※)なんかでも、とにかくそういう選手を育てるように指導してきたんですね。そのおかげで、今は個のテクニックでも世界レベルで勝負できるプレーヤーが出てきている、というのはあります。ただ、その分、今度は出し手が減ってきたという現象もありますが」
※トレセン…ナショナルトレーニングセンター制度のこと。「日本サッカーの強化、発展のため、将来日本代表選手となる優秀な素材を発掘し、良い環境、良い指導を与えること」を目的に始まったユース世代のトレーニング制度。
—そういう、ある意味では「個で仕掛けるテクニック」が重視されていた時代の中で、中村選手はオフ・ザ・ボールやポジショニングなどを磨いてきた。先見の明があるな、と私は思います。
中村「まぁ身体能力的に自分はそこを目指すべきだったというのもありますし、日本で一番うまいFWは柳沢選手だと思っていたので」
—ところで、ニューイヤーズ杯の際、ラウール選手とはお話できましたか?
中村「試合の二日前に両チームでのパーティーがあって、その時に少し」
—どんな会話でしたか?
「いや、もう短いですよ。というのも、うちのチームスタッフが事前にラウールに、僕が彼を好きなのは香港では有名な話だって伝えてくれていたんですよ。それで僕のところに来て『君はストライカーなのかい?』って感じで」
—ラウール選手から声をかけられたんですね。すごい。これは今まさにプロサッカー選手を目指してがんばっている子供たちにぜひ伝えたいですね。中村選手のように、プロ選手になって、小さな頃から憧れていた選手とピッチ上で対戦する。子供たちに大きな夢と希望を与えることができると思います。
続く
松本忠之(まつもとただゆき)
サッカーコラムニスト。
サッカー専門ブログ「BEE Football Spirit」アドバイザー、コラムニスト。
【略歴】
静岡生まれ。
小さい頃から地元の高校である清水商業(当時)や清水東、東海第一(当時)、静岡学園などの試合を見て育つ。Jでは清水サポ。大学卒業後に中国に渡り、日本代表やJリーグの観戦ができなくなるが、あふれるサッカー熱は抑えきれず中国サッカーの観戦及び取材を行うようになる。
【観戦経験】
英プレミア:マンU(香川在籍時)、チェルシー、マンチェスターC。
リーガ:バルセロナ
セリエ:ユベントス、ローマ。
ブンデス:ニュルンベルク(長谷部、清武在籍時)、ハンブルガーSV
【中国Cリーグ】
中国サッカーへの造詣が深く、山東魯能をはじめ上海申花や武漢卓アルといったクラブ関係者と交流があり、Jリーグのアジア枠設置に伴い、中国人選手がJリーグへ移籍する際の窓口の一つにもなっている。また、元中国サッカー協会会長の閻世鐸氏とは何度も会食している。
08年 山東魯能のCリーグ優勝祝賀パーティーに日本人として初めて正式招待。
09年 アジアチャンピオンズリーグ 山東魯能日本人アドバイザー。
※当ブログでは、中国1部リーグの呼称を中国で一般的に使われている「中超」に統一いたします。「中超」は中国語の「中国超級聯賽」の略です。
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